夏旅その7 霧社

一度行きたかったところ。霧社です。


台湾に来て、台湾に関する本を読み漁っていると、そのトーンは論者によって様々ながらも、やはり台湾史の中の日本統治時代の一大事件として、また日本の「理蕃政索」の転換点となった事件として必ず触れられているものだから、いつの間にやら私の中で大きな位置を占める対象となっていました。


1930年10月27日。この山間の静かな町で日本統治史上最大の、そしてもっとも悲惨な、台湾原住民、セイダッカ族による抗日蜂起事件がおきた。


その当時、霧社の周辺では樟脳産業がさかんで、多くの日本人が入植していたという。また、こうした「蕃地」*1では、警察が治安、教育、行政をすべて取り仕切っていたため、多くの駐在所が設置され、日本人警察官も多く暮らしていた。


霧社はこうして日本人と原住民が境界を接する場所であり、当時から理蕃のモデル地域として扱われていた。だけど、その統治はセイダッカ族の彼らにとっては、過酷なものであり、彼らの習俗や風習、信仰を無視したものであった。


そもそものきっかけは、婚礼の酒宴で日本人警察官がセイダッカの人々の献杯を拒み、かつはずみで殴打し、セイダッカの人々と殴り合いになった。その事件処理をめぐってということだそうだけれど、そこにいたるまで彼らの怒りは静かにゆっくりと堆積していっていて、いつか何かが火をつければ、あっという間に燃え広がっていく、そういう素地ができていたということだろう。


彼らが襲撃した現場は、1年に一度の霧社地区の連合運動会の場で、そこには原住民も、漢族系の台湾本島人も、日本人もいた。だけれども、蜂起部隊は明確に日本人だけを襲撃した。そこに彼らの日本人への怒りの深さ、激しさがうかがわれもする。


清境方面から台14号甲線を霧社の方へと下っていくと、まずこの「碧湖」が目に入ってきます。「萬大水庫」というダム湖になっています。


当日、やはり台風の影響か、濁水渓から入水する箇所に土砂が溜まってしまっている様子が伺えました。


清境ではよく晴れ渡っていたのに、なんだか泣きそうな空になってきていた。



町の入り口の少し小高い丘の上にこの徳龍宮があります。今、補修中。


旧霧が丘神社があったところ。戦後は孔子廟にされていたということだけれど、今は台湾各地によくある民間信仰の廟になっているとのこと。


霧社事件発生後、日本は蜂起しなかった原住民を「味方蕃」として討伐に刈りだし、蜂起部族の首に懸賞をかけて戦わせた。そのときに刈った首をこの神社の階段に並べたそうです。



旧神社境内からは、このように霧社の町と碧湖が眼下に一望できる。




今の霧社の町の中心部あたり、仁愛郷公所の裏手に抗日起義記念碑のある公園が整備されています。

入り口。



これが記念碑。


蜂起軍のリーダー、モーナ・ルダオの立像もあるのですが、写真が暗くてうまく写っていませんでした…



その立像の後ろにある、モーナ・ルダオの墓と無名戦士の墓。後ろにある大きな棺状のものがモーナ・ルダオの墓で、手前の地上に埋め込まれたレリーフが無名戦士の墓。


無名戦士の墓には、戦後日本が去ったあと、能高郡警察署霧社分室の裏手から、手を針金で縛られた遺骨が掘り出され、その人々が葬られています。当時の状況を知る人の証言から、事件後連行されて取り調べを受けに行ったまま帰ってこなかった蜂起部族の人々ではないか、と言われているそうです。



少し離れたところに、かつて日本人殉難者の碑が立っていた場所があると聞いたので、行ってみました。


どうやら、ここ、のよう。

以前はもっと荒れ果てていたそうですが、ベンチとテーブルが置かれて公園らしき姿に整えられています。

碑は日本と断交した頃に引き倒されてしまったらしい。



その殉難碑跡からメインストリートに下りていく道、事件のあった元公学校の敷地が見えました。

写真奥の白い建物があるところ。旧霧社公学校は、現在は台湾電力のセンターになっています。



もし状況が許せば、霧社から東の方、盧山温泉方面へも向かってみたかったのですが、今回の台風で、去年も流されたつり橋がまた流されている*2、との情報があったので、取りやめることに。蜂起部族はそちらの方面に居住していた部族で、彼らがかつて住んでいたところ、進んできた道も見てみたかったのですが…次の機会を待つことにします。

この地を訪れてみて、思った以上に言葉が見つからない自分がいました。墓碑を前にして、記念碑を、事件の跡地を前にして、何を言っても空々しいのではないか…と。今はただただここに立ちすくむしかない。


霧社事件についての本のなかに、こんな言葉を見つけました。霧社事件で首謀者の一人と噂を立てられ、自害して果てた花岡二郎の妻であった高彩雲(オビン・タダオ。日本名 花岡初子)さんの言葉。高彩雲さんの家族も蜂起部族として散りました。


「私たちは日本人を憎んでもいるし、愛してもいます。日本人を憎むのは、彼らが同胞を牛や馬のようにみて、たくさんの人を殺したからです。愛しているのは、日本人は私たちに文明開化をもたらしたからです」
「このような矛盾した感情が、私たちの悲劇の原型を運命づけました。また、民族の宿命となりましたが、私たちは民族の宿命のなかから、向上するために、希望にむかって歩きださなければならないのです」*3


彼女たちにこうした感情を与えないですむことはできなかったのでしょうか。今の私にはわかりません。でも、またいつか霧社の町を訪れたいと思いました。


参考
霧社事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

抗日霧社事件の歴史―日本人の大量殺害はなぜ、おこったか (史実シリーズ)

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抗日霧社事件をめぐる人々―翻弄された台湾原住民の戦前、戦後 (史実シリーズ)

抗日霧社事件をめぐる人々―翻弄された台湾原住民の戦前、戦後 (史実シリーズ)

地球の歩き方の霧社のコラムも大変参考になりました。

*1:原住民の居住地域。統治時代の呼称。

*2:そういえば、直近の台風で知本温泉のホテルが河に飲まれたのが日本でも報道されていましたけれど、去年の辛拉克台風では盧山温泉のホテルが倒壊して、流されてました。

*3:訒相揚「抗日霧社事件をめぐる人々」機関紙出版センター pp257